ポリアモリーの定義とは?


ポリアモリーの定義って、何でしょうか?

こちらでは、「あなたの定義するポリアモリーとは?」というお題の元に、ポリアモリー研究室のスタッフそれぞれの定義をご紹介します。


スタッフ 安岐さんの場合:

 ポリアモリーの定義を考えるとき、わたしの最大の関心事は「誠実な」「交際状況をすべてオープンにした上で」「全員の合意のもとで」という文言を入れるかどうかということです。2018年の今、日本でポリアモリーの定義というと「合意の上での複数愛」というような説明がなされることが多いのではないでしょうか。今年5月に刊行されたきのコさんの著作『わたし、恋人が2人います。複数愛という生き方』にも「『複数の人と、全員の合意のもとでオープンにお付き合いをする』というライフスタイルを『ポリアモリー』といいます」(p.20)とあります。
 わたしは以前、ポリアモリーについて「恋愛や性愛において一対一でなくてもよいとするあり方」と定義していました。ポリアモリーの人って、恋人やセックスする相手が2人以上いたり、今実際に2人以上いるわけでなくても恋人が2人以上いてもいいと考えている人なんだよね、と思ってました。これは、2008年刊行のROS編著『恋愛のフツーがわかりません!! ゆらぎのセクシュアリティ考2』では「一対一に閉じられていない性愛関係」(p.12)、「複数の相手に開かれた関係性」(p.10)と表現されているので、このへんからきているのだと思います。今パラパラと見返してみると、この本では「すべての関係者に交際関係をオープンにして合意を得る」「誠実な」などの表現は目立ちません。わたしもこの頃は「複数に開かれた関係性を志向する」ということにのみ目が向いていて、誠実うんぬんはあまり重要視していませんでした。
 2004年に日本語訳が発行されたデボラ・アナポールさんの『ポリアモリー恋愛革命』では、ポリアモリーは「責任ある非一夫一婦制」(p.14)と説明されています。著者自身の経験から「まずみんなの了承を得てから交際をスタートさせることも、誠実であるための条件だと痛感している」(p.34)と書かれていたりはするものの、「交際状況を全員にオープンにし合意を得るべきである」との強い圧はそれほど感じられません。
 一方で2015年に発行された深海菊絵さんの『ポリアモリー 複数の愛を生きる』ではポリアモリーが合意に基づく誠実な関係であることが強調されています。「複数愛といっても、ポリアモリーには条件がある。それは自分と親密な関係にある全ての人に交際状況をオープンにし、合意の上で関係を持つこと。したがって、パートナーに隠れて複数の人と関係を持つようなことはポリアモリーではない」(p.14)とはっきりと書かれています。
 と、ここまで日本語で出版された書籍でのポリアモリーの定義、誠実・合意うんぬんの問題について見てきました。どうしてわたしがこのことに関心をむけているかというと、「ポリアモリー研究室」やその他のポリアモリーの集まりに参加する中で「ポリアモリーであることをパートナーにオープンにできない」という悩みを抱える人に出会うからです。「オープンにする必要性を感じない」という人もいます。「パートナーにオープンにできない自分は集まりに参加する資格がないのではないか」と心配する人もいます。そういう人たちを排除する定義は嫌だなぁと思うのです。
 せっかくここまでいろいろと見てきたので、自分なりのポリアモリーの定義を考えてみたいと思います。「恋愛・性愛の関係を築く際に一対一でなくてもいいとするあり方。複数愛。自分と親密な関係にあるすべての人に交際状況をオープンにし、合意の上で関係を持つべきとされることが多い」。うーん、どうでしょう。もっとしっくりいく表現をこれからも考えたいと思います。


スタッフ  有山さらさんの場合:

 

愛するひとをその愛するひとと、共に快適に抱きとめるハンモックになる決意。それと同時にわたしもそんなハンモックの上でゴロゴロしたいよ!という願い。
(そのハンモックは運命の赤い糸で作られた特注品なのです)
そして、ときに寝心地に文句言って、糸の様子を調節しながら、新しい糸を足してもいいし、途中で糸が切れることもあるけど、つねに繕って紡ぎ続けていくこと。
そんな最高の寝心地をめざす営みを続けていきたいと思っています。

ポリアモリーはどこか常に不定形でどこか動いているけど、みんなにホールドされている安心感があって、ハンモックみたいだなと感じました。
(きのう、公園のハンモックに寝転んでとてもよい休日だったのです!)

学術的な定義?とかきちんとしたことはほかのスタッフの書いたことをぜひ読んでください…


スタッフ かやちゃんの場合:

 

 わたしの定義するポリアモリーとは、一言で言えば、人間関係のゆるゆるふわふわ化です。今までY軸とX軸で構成される二次元的な一直線でしかなかった関係性が、三次元以上の高次元でもってさまざまな距離感、形、大きさ、質量でもって、わたしの周りでふわふわと浮かんでいるような感じです。わたしとゆるゆるとつながっている人たちと、わたしが、無重力の中で、ふわりふわりと自由に行き来するイメージを思い浮かべてもらったら良いと思います。
 モノアモリーのころは、大変でした。一直線でしかなかったので、相手が他の軸に興味を持ったり去っていこうとすると、必死で引き留めようとしんどい思いをしたり、逆に、わたし自身がほかの人に軸が向けば、以前の人とは関係性を経つ以外に、恋愛や人間関係を楽しむ方法はありませんでした。ブツブツとよく切れる、古い輪ゴムのような関係性でしかありませんでした。
 では、そのふわりふわりとした関係性が、実際にはどういう働きをしているのかというと、モノアモリーだったころと、表面的には何も変わりません。友だちという枠でいたいと感じている人には、今まで通り友だちですし、家族でいたいと思う人には、家族として接するようにしています。
 ですが、明らかにわたしの中で変わったことは、わたしは、もしかしたらわたし以外の人とも、根っこのところではゆるゆるとつながっているのではないかという感覚です。
 それは決して、世界中の人が大好き!という感覚ではなくて、嫌いな人とも、好きな人とも、どっちでもない人とでも、わたしは結局のところ同じ世界にいるのではないかという感じなのです。この人のことしか好きでいなくてはいけないのだという感覚は、逆に言えば、それ以外の人たちへのゆるゆるとしたつながりも、ほとんど感じさせなくなり、嫌いだと思う人、どっちでもない人は、わたしの世界から追い出してしまうような、そんな感じをモノアモリーのころは持っていました。つまり今は、自分に関係ない人なんて、実はいないのではないかと思うんです。
 そのふわふわとしたつながりを、人はなんと呼ぶのでしょうか。「好き」だというのなら、そうなのだと思いますし、「嫌い」なのだと言われれば、そうなのだと思います。つながりに対する呼称は、わたしにとってはあまり重要なことではありません。わたしにとって大切なのは、どのような形であっても、ゆるゆるとつながっているという状況です。
 ときには、つながりのある人と、セックスがしたくなります。手をつなぎたくなります。隣に座っていたくなります。それはわたしがポリアモリーだからではなく、わたしが人間だからなのだと思います。ポリアモリーは、関係性のお話しであって、好きや嫌いやセックスの有無や恋人の数ではないと、今のわたしは考えています。
 ポリアモリーになりたてのころ、セックスしてなんぼや、恋人がいてなんぼや、という風に考えていたこともありました。ですが、だんだんと日々変化するセクシュアリティの中で、わたしのポリアモリー観はすこしずつ変化していき、今日お話しする感覚にまで、今は至っています。今後も、変わってゆくのだろうなぁと思います。そのときはまた、新たなわたしのポリアモリーの定義として、ご紹介できればと思います。ありがとうございました。